えりあし

思ったこと、残しておきたいこと、いろいろ

ルードウィヒ・B 〜歓喜の歌〜

舞台というものに触れると、思い出す景色があります。

イーストボーイのローファー、近所のスーパーで買った三足千円の紺のハイソックス、卒業した先輩から頂いたおさがりのスカート。高校指定の制服を着た16~18歳の頃の自分。所謂青春時代というやつ。

舞台上の床って、なんだかササミみたい。白くて柔らかくて、繊維の筋が決まっていて、生きていた元の木の姿、までは想像が届かない。彫刻刀で彫るとするする掘り進められるんだろうな、って。ローファーの靴底で踏みつけながらにそんなことを考えていた学生時代。舞台に立つという行為は私にとって、日常、ではないけれど、現実からそう遠くない距離、部活動の一貫として定期的にそういった機会に恵まれていました。

客席の真ん中から、マイクを通して指示が出る。いつも音楽室で並べているように、ホールから借りた椅子を皆で並べていく。ホールのステージは、当たり前だけど音楽室より断然広いから、縮尺の違いをセッティング係のリーダーが教えてくれる。フルートのトップが座る椅子の足元に、赤のビニルテープでばってんを作って床に貼り付ける。パーカッションの男の子が隣のティンパニが邪魔じゃないか訊いてくれる。

色んな調節が終わってやっと、コンサートマスターが指揮台に立つ。メトロノームの針が左右に触れる動きをじっと見つめながら、一定のテンポを自分の中に刻み付けていく。音を鳴らす前から裏拍を意識して、ブレスにもテンポを感じて。基礎合奏は全てフォルテ。フォルテというのは、一番奥の席のお客さんまではっきり音を届けるということ。何度も何度も繰り返し注意されて、その度に意識するけど、いつの間にか抜けちゃって。意識してるのに音に出てない、と言われることもあって。悔しくて情けなくて悲しくて、何度も辞めたいと思って、何度も泣いて、それでも3年間続けていたのは、好きだったから。舞台に立つ人達の仲間でいたかったから。

そんな高校時代の自分を思い出します。

 

 

A.B.C-Z橋本くんが主演のルードウィヒ・B〜歓喜の歌〜を観劇してきました。

私の中で音楽は「思い出」、ということで、橋本くん河合くんがピアノを弾く、と聞いたときからずっと楽しみでそわそわしてました。アイドルとクラシック。舞台と生演奏。芸術という大きな括りでは同じの、けれど形がすこし異なる二つの分野が重なる瞬間に立ち会えることの喜びといったら。プロと比較するのは烏滸がましいと思いつつ、私にとってクラシックは、楽器の演奏というのはとてもとても特別な「思い出」です。

 

2014年、A.B.C-Zの色んな舞台を観てきて、どれも特別なんだけど、「思い出」と重なる部分が大きかったという意味で、ルードウィヒは私にとって特別な舞台になりました。

河合くんと五関くんがファウスト、戸塚くんに出発、五人でツアーがあって、塚田くんのイットランズ、最後に、橋本くんと河合くんのルードウィヒ。もう、この流れが美し過ぎる。お兄四人が事務所社会やグループから離れた環境で続々と舞台に立ち、美しく作品を演じ切って、それを客席で観続けてきた橋本くんが、2014年末に自身主演の舞台が決まる。ぽつりぽつりと打たれていた点が、点だと思っていたものが線になった、リレーのバトンのように、流れ星の軌道のように、橋本くんに繋がれていった。A.B.C.がA.B.C-Zになったような奇跡の軌跡。私はA.B.C.をリアルタイムで感じたことはないから、想像になってしまうのですが。橋本くんが2014年という一年を、物語として紡いでくれた。それだけでもう私は、随分と胸がいっぱいでした。

 

橋本くんといえばメインボーカル、A.B.C-Zの音楽部分を公的に担う人。橋本くんの辞書に恐らく「クラシック」という引き出しは今までになかったと思うんですよ、ここ数年の雑誌とざっとインターネットを見回っての話なので、密に遡れば過去にあったのかもしれませんが…。仕事じゃないと(おそらく、少なくとも今のタイミングでは)触れなかった分野に、仕事で触れる―――その先の未来まで私は勝手に想像してしまっているんですけどもっ。何といえばいいんですかね、「仕事で」出会った。そのことに私はとっても熱いものを感じています。

プロとしてアマとして、私の周りにはクラシックと密に触れ合っている人がたくさんいて、色んな話や現状を目にします、耳にします。

クラシックって、テレビ番組のゴールデンタイムの民放で主として題材に取り扱われる機会がまずないですし、「伝統」「古典」「気軽に触れられない」などの、とっつきづらいイメージが先行して思い浮かぶんですけど、それってA.B.C-Zのイメージと重なる部分が多いように私は感じます。「間違いなくいいものなのに、世間には馴染めない」。今の時代、文化を存続させるためにもお金は必要で、文化を商業に乗せて、経済のサイクルを回して自分で稼ぐ必要があって。時代の流れに沿って大なり小なり、文化の在り方を変容していかなければいけないのかもしれないけど、馴染むと良さが損なわれてしまいそう。作品の歴史や価値と世間の認知度や評価が合致していない。大分ズームアウトして色んなことをぼかして話していますが、そんな二つが一つの舞台を通じて共演したことが、運命、なのでは…?とすら、思わされます。*1

私はA.B.C-Zの物語が大好きで、A.B.C.がA.B.C-Zに、そしてA.B.C-Zがデビューに繋がった一連の物語に猛烈に恋をしているので、後に加わった橋本くんにまた、歴史の糸を紡いで美しい物語として見せられてしまった。2014年にまた恋をしました、落とされました。A.B.C-Zに二回も落とされちゃった。そんな感覚。最高です。たまんないです。

 

ルードウィヒには公式ツイッターの他に、ジャニーズウェブでの出演者二人の連載も毎日更新されていて。ベートーベンとモーツァルトが紡ぐ愛の言葉、という主旨はさておき、二人の言葉が毎日webに掲載されることは舞台への期待を煽られました。

主演とは、一番前に立つ人で、物語の主軸であり、舞台を作るにあたって舞台に立つ人達の牽引役、指針を示す人、空気を作る人、だと私は思っていて。ルードウィヒのお母さん役である浅野さんに「ルーちゃん」「りょうちゃん」と呼ばれる橋本くん、稽古前にはハグしていた橋本くん。事前のテキストからでも橋本くんの立ち位置や在り方には、気持ちよく期待値を上げさせて貰っていました。実際に観劇しても、あの舞台の中心には間違いなく橋本くんが立っていて、橋本くんを軸に話が動いていく。ルードウィヒという主役を橋本くんが担うことで作り上げられていった世界がとてもとても美しかった。21歳の橋本くんが、あの舞台の、あの作品の、あのキャストの面々の中で真ん中に立ち続けていたことは、当たり前じゃなくて、ものすごく特別なことで。「ベートーベンのファンの人に失礼がないように」と言っていた橋本くんが、ずっと、ずっと、真ん中にいた、居続けた、そしてそれが、とても素晴らしい作品になったこと。色んな人の動きや思考が重なって連なって作られていく空間が、物語に乗って、音楽として会場を震わせていたこと。それを直に肌で、五感で感じられたこと。全部が素敵で、奇跡みたいだった。

ジャニーズ伝説の舞台を観て思ったのが、私は橋本くんの「声」が大好きだなって。フランツに襲われたときの悲鳴も、好意を持った女性の名前も、そっと囁く優しさも、お母さんへの愛も。一番に私に飛び込んできたのは、橋本くんの「声」でした。舞台ってすごくいいですね。肌で感じる音の振動が、もうずっとすごくって。国際フォーラムという会場もそれを巧に手伝ってくれました。

ピアノの川田さんの当て弾きも、全然わからないくらい、指や身体の動きが音楽にぴったりで。本当に弾いてるんだと思ってました。そう思わせてくれたことが、すごい。川田さんの演奏と、演技と、橋本くんの演技がこんなに綺麗に重なることって、あるんだ、って。他人と他人の生み出したものが、目の前で、リアルタイムで、ぴったりと寄り添う瞬間に、劇中何度も体感しました。瞬間は瞬間で終わらず、一秒刻みに奇跡の瞬間が繋がって連なっているようで、観ながらずっと鳥肌が立ってました。

 

ルードウィヒの最後の指揮。指揮は、全部出るから。音楽への不理解、自信のなさ、人としての在り方、全部曝け出されてしまうのが、指揮台という場所だと思ってます。そこに立つ橋本くんとその背中。ジャケットの皺が内側によって、肩甲骨が外側に回転しているのがわかりました。交響曲第九番。誰もが何度も耳にしたことのある名曲を、録音も交えながら、生演奏と合わせて舞台の最後、ルードウィヒの最期を締めたあの光景は、本当に圧巻でした。物語の終焉を、今までの話の展開や演出だけじゃない、あの時の橋本くんの指揮には全てが詰まっていて、ねじ伏せられるような強い説得力。強いけど、乱暴でも一方的でもなかった。ルードウィヒの一生が、すべてあそこに集まって幕を閉じる。音楽が終わる頃には、観客の自分に出来る精一杯の賛美、弾けるような拍手を夢中で送っていました。

 ルードウィヒを演じ終えた橋本くんに生まれたもの、得たもの、千秋楽を終えて時間が経過して尚橋本くんに残っていくもの。全部が楽しみです。次の橋本くんの仕事が楽しみで仕方ないです。

大分日は経ってしまいましたが、ルードウィヒ・B、とても素敵な舞台でした。観れてよかった、あの世界を音楽を、肌で感じられてよかったです。

 

 

 河合くん。河合くんめっちゃかっこいい。モーツァルトきゅんは私が今まで見てきた河合くんの中で一番のお仕事です。

初めて河合くんの演技を生で見たのは13年ABC座ジャニーズ伝説でした。日生劇場の二階後列という、舞台からそこそこ距離のある席にいたのに、飛び出す絵本のような迫力で、河合くんの演技に“ぶつかった”あのときの感覚は、未だに忘れられません。舞台に立つ河合くんのかっこよさに本気で震えたんです。えび座が私の初めての現場だったら、間違いなく河合くんに落ちて、いやいっそころされてました。それからはもうずっと、舞台に立つ河合くんのファンです。

 

 

私的初日に観たモーツァルトの半音階のピアノが、私には本当に弾いているように見えて。結果として演奏は河合くんではなかった?生ではなかったよね?んですけど、そんなことどうでもいいです。そのときの河合くんの所作と音になんの違和感もなかったから。そこでもう、がつんと恋に落ちました。モーツァルトきゅんに恋しました。所作や間合いが本当に絶妙でした。

作品全体はシリアスで重めなシーンが多いと思うんですけど、河合くんが出てくるシーンはちょっと気が緩められるというか、肩を竦めて次の悲劇に身構える必要が一切なかった。モーツァルトは話しても動いても逐一お花が舞ってたし、ユリシーズは子供の無垢さとそれを壊さない範囲でのライトな笑いの隙間を作って貰えて、いい意味で河合くんの登場シーンでは息抜きをさせて貰えました。

 

 

web連載では一週間前くらいだったかな?演技が固まらない、と言っていたり、別の雑誌で河合くんは「自分は台詞を覚えるのが遅い」と話していたことがまず意外で、でも、舞台に立つ河合くんには、不安なんか微塵も感じませんでした。ずっと頼もしくてずっとかっこいい。

橋本くんは自分自身がルードウィヒになっていくようで、河合くんは、河合くんの決めた精巧な役の器に自分自身をとくとくと注いでいくような、そんなイメージです。器があるからブレないし壊れない。器が精巧だからどの角度から見ても全部が美しい。どの日どの時間に見ても河合くんの演技が崩れることはない。河合くん、強い、かっこいい…… _(:3 」∠)_

 

 

ジャニ伝のジャニーズ解散の件や、空港でてるひこが歌うシーンでもそうですが、河合くんって演技が本当に細かい。五関くんとはまた違った細かさ。細かいけど、圧倒もされるからすごいです。こっちが追いかけるときもあるけど、向こうがこれでもか!ってくらい距離の近い飛び出す演技をしてくるときもあるので、くらくらしちゃいます。色んな役、もそうですが、色んな立ち位置にいる河合くん、も見てみたいと思いました。

*1:「運命であり、必然、です」って小さい子が