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舞台「良い子はみんなご褒美がもらえる」個人的解釈まとめ

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4/20~5/7まで、赤坂ACTシアターで上演している舞台「良い子はみんなご褒美がもらえる」を観劇してきました。

www.parco-play.com

 

観劇は1回のみ。観る人どころか観たその時々で違う感想を抱くことになる作品で、解釈は多ければ多い方がいいかな、と思い、自分の記録として残していこうと思います。

※ガッツリネタバレ※しておりますのでご注意ください。

 

 

 

 

 

「良い子はみんなご褒美がもらえる」

登場人物は、橋本良亮くん演じる自分にはオーケストラがいると信じている「イワノフ」、堤真一さん演じる精神病院に正常者がいると自分の正義を主張する「アレクサンドル」、シム・ウンギョンさん演じる父親と離れて過ごすアレクサンドルの息子「サーシャ」。斉藤由貴さん演じる世間の声を正義だと信じる「教師」、小手伸也さん演じる権力に従う「医者」、外山誠二さんが演じるのは劇中で名前こそ呼ばれていたけれど紹介に書かれている文字は「大佐」。

主要の登場人物が6人いるにも関わらず、この舞台に存在する人物名は「アレクサンドル・イワノフ」、ただひとつのみです。

 

 

 

3人の「アレクサンドル・イワノフ」

「アレクサンドル・イワノフ」はロシアのごくごく一般的な人名だそうで、それはひとつの空間にアレクサンドル・イワノフという同姓同名が3人存在したっておかしくないという言い訳になると同時に、3人は明確に違いを出すほど特別な存在ではないこの場にいる3人は誰が誰でも変わらない誰かが誰かの立場に変わってもおかしくない存在とも解釈できます。

オーケストラは「いない」と断言するならば、精神病院に正常者だって「いない」。オーケストラが「いる」ならば、精神病院に正常者は「いる」。誰かの思想を認めることは自分の思想を尊重される権利に繋がり、誰かの思想を否定するならば自分の思想をも否定されても文句は言えません。
1人にしか見えないオーケストラだから存在せず、教養を持って強い権力に対峙し周りからの支持を集めれば精神病院に正常者は存在するのか。思想や存在は自由なはずなのに、周りからの「理解」という「許し」がなければ「権利」は存在できないのか と、2人のアレクサンドル・イワノフが信じる「正義」がこちらに問いかけてきます。

 


3人の「先生」

名前のない3人「教師」「医者」「大佐」は共に「先生」と呼ばれる立場にあります。公式サイトのキャラクター紹介を是非見て欲しい。一般的には役の番手順が多いと思いますが、このサイトでは劇中のパワーバランス順にキャラクターが紹介されています。


アレクサンドル・イワノフは「医者」の診断のもと病名を決められ、薬を処方される。その診断は果たして正しいのか?その薬はほんとうに症状に合ったものなのか?そんな疑問は認められない、病院での決定権は「医者」にあるから。けれど医者はより権力のある「大佐」に抗えない、たとえ同姓同名の患者を取り違えていたとしても。


もし大佐が「オーケストラはいる」と言ったら?もし医者が「オーケストラが見えても精神病院に正常者がいても病気ではない」と診断したら?もし教師が「精神病院に正常者がいる」と子供たちに教えていったら?
人を教え導く立場にある3人の「先生」は“誰が言った”か、その「立場」を問いてきます。政治家が言えば、社長が言えば、好きなアイドルが言えば、バズったツイートならばそれは「正しい」のか?と。

 

 

 
トライアングルが鳴らす「自由」

この舞台のキービジュアルにも登場していたトライアングル。「俳優とオーケストラのための戯曲」とあるにも関わらず、イワノフが手にしているのはヴァイオリンでも管楽器でも指揮棒でもなく、トライアングルです。舞台冒頭、35人のオーケストラを後ろに従え、舞台の最前線でイワノフはトライアングルを叩き、その音色を奏でます。
トライアングルは管楽器や弦楽器と違い、叩けばすぐに音が鳴り、子供にも演奏できる非常に簡単な楽器ですが、構造がシンプルだからこそ、叩く箇所や叩く強さ、その日の気温や環境によってその都度音色が変わってしまいます。何の縛りも制限もなく簡単である一方、正解と断定できる材料が少ないため非常に難しい。イワノフが持つトライアングルは「自由」の象徴だと私は解釈しています。

誰でも簡単に鳴らせる楽器なら、鍵盤楽器でもティンパニでもカスタネットでもいいところを、わざわざ「トライアングル」を選んでいることに意味があるのだと思います。その理由は次の項で。

 

 

「3」という数字

劇中サーシャは「線には辺があるけど幅がない」「三角形は一番数の少ない多角形」と幾何学の定義を読み上げます。3人の「アレクサンドル・イワノフ」と、3人の「先生」、そして、三角形からなる「トライアングル」。この舞台における「3」は何か意図があるのではないか、と考えられます。

私が推察する「3」は、第“3”者の存在。“2”人では自分と自分しかいないけど、“3”が現れることで客観性が生まれます。点は2つだけでは幅がない、決着がつかずどこまでも平行線に続いてしまうけれど、もう1つ点があれば幅が出来る、図形になる。意見が対立しあっても多数決で答えを決めることが出きる。その最小数が「3」人であるのかな、と。
サーシャは病院で父親とは別のもう1人のアレクサンドル・イワノフと出会うことで、3人の運命が交わり、3つの点に線が引かれ、「アレクサンドル・イワノフ」の境界は益々曖昧になっていきます。

 

 

 

アレクサンドルの指揮

命を差し出す覚悟でハンストを起こし、自分の意見が「正しい」と世間に認めてもらおうとしたアレクサンドルは最後、自分の主張を認められないまま解放されてしまいます。アレクサンドルが求めていたのは「自由」ではない、息子の元へ帰ることでもない、自分の信じる「真実」を貫き通すことだったのに、彼の願いは叶わなかった。
イワノフの自分にしか見えないオーケストラは、たとえ人に見えなくても彼にとっては揺るぎない「真実」です。他者に「真実」を認められたかったアレクサンドルは、自分の中に「真実」があるイワノフと同じ場所、台の上に立ち指揮棒を振り、そして舞台は終わります。アレクサンドルは最後の最後に、精神病院で同室だったイワノフの気持ちを理解しました。自分だけのオーケストラ、自分だけの自由、自分だけの真実。自分の中で留めるならば思想はどこまでも「自由」です。ただ、アレクサンドルが“自分の中”だけで完結出来る人間かはわかりませんが。*1

 

 

サーシャの示す答え

あらゆる立場や角度から自身の根幹を揺さぶるような問いを投げかけてくる今作ですが、その答えの一つはサーシャが示してくれました。それは、自分の意見を相手に伝えること

サーシャは父親に「嘘を吐いてでもいいから帰ってきて」と願いました。自分の「真実」を貫き通したいアレクサンドルに対してその願いは、アレクサンドルの意に反する行為です。けれど、それをわかった上でサーシャは自分の願いを、祈りを、アレクサンドルにぶつけました。アレクサンドルの子供であるサーシャは父を従える「権力」を持っていません。けれど、伝えることは「自由」です。自分の答えを選ぶのはアレクサンドル自身だから。そしてアレクサンドルは、サーシャの元へは帰らず、指揮台に上ることを選びました。何を選ぶかもまた、アレクサンドルの「自由」だったから。

 

 

 

パンフレットでも「この作品は普遍性がある」「現代に上演するに相応しい」と語られていたように、劇中の人物たちの言動や振る舞いは容易く自分の立場で置き換えることが出来ます。イワノフを見て、アレクサンドルを見て、サーシャを見て、今自分は誰の立場で誰の言葉を話しているだろうか?自分がこの人物に対して抱く感情は他者が自分に抱いている感情と同じなのでは?と考えると面白いです。

誰もが報われる作品ではないけれど、だからこそ胸に残る思いがある。私にとって「良い子はみんなご褒美がもらえる」は、そんな舞台でした。

当時のロシアの情勢とか登場人物の台詞とか演出とか、知らなかったり見落としていたりする箇所も多くあると思いますが、今の私に書けるのはここまでなので、こちらで終了とさせて頂きます。

ACTシアターはGW明けまで上演していますので、まだの方は是非一度足を運んで劇場で体験して頂きたい作品です。って、そんな人はこのブログ見てないか!笑

 

橋本くん、素敵な演劇体験に出会わせてくれてありがとう。そして、最後までお目通し頂き、ありがとうございました。

*1:できないですよね、きっと。